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壁と卵の永遠の戦い

  • 執筆者の写真: Mie Ogura-Ourkouzounov
    Mie Ogura-Ourkouzounov
  • 2019年7月1日
  • 読了時間: 4分

希望にあふれる子どものメッセージ。

まったく世界というのは人種間の争いに見せかけて、実は「システム」と「個人」の戦いに尽きるのではないかと思う。

システム=壁とは国家、宗教、学校、集落、家族その他全て人間によって作られた、集まりのことだ。

それはもちろんなくてはならないものでもある。

卵とは、一番壊れやすい薄いカラに包まれただけの一個人。

自分の子どものことは愛しているのに、システムの名目によって他の子どもは空爆して死んでもよい、というのはどういうことだろう。

最 近、野依博士というノーベル化学賞受賞の博士の記事を読んで深く共感した。このようにクリアーでインテリジェンス溢れる意見を真っ向からシステムに突きつけられ るというのは、氏が世界トップの科学者でおられることが、これだけ分析的で圧倒的に実情を暴けられる力になるのだろう。素晴らしいのは氏がはっきりと科学 の役割、芸術の役割を客観的に見てそれらが潜在的にどのような力を持つのかに言及しておられることだ。

彼ははっきりとカネ持ちと権力者になるための教育をしてはいけないといっている。

なぜか?それはシステムを増強する教育だからだ。

彼は精神的にシステムから抜け出すことができ、世界を俯瞰してこのようにはっきりとしたヴィジョンを述べているが、我々はシステムの中にいて、それらを客観的に見る力をなくしているのではないだろうか?

日々権力と妥協するだけに走り回っていないだろうか?

善意からであれ悪意からであれ、必然的に人間がシステムを作り出すのだから、システムのない世界は考えられない。しかしシステム自体が意思を作り出すと、システムを作り出したはずの人間の個人個人を殺してしまう。

なぜシステムが意思を持ち強大になり独り歩きするのか?それは権力欲と言う名の悪意、自分はシステムの名の下に人を どのように扱っても許されるという大いなる勘違い、そして自分の側からしか物事を判断できない、偏見という悪意。

一つのものを盲目的に狂信することは簡単で、多様性を認めることは難しい。

たとえ音楽を良くしたいから、という名目があったとしても、人間個人に対する善意が持てないのなら、やはりそれは音楽を殺す。なぜなら音楽とは骨董品でもなんでもなく、人間から出て来るエネルギーそのものだからだ。

音楽、と言う言葉を社会、と置き換えてもぴったりだ。

もっともらしい言葉を並べた名目に惑わされてはいけない。

大人になった側が子供側の感覚を理解しようとしないのも大いなる偏見のひとつだ。

この世界は大人と子供、両方の感性があって成り立っている。子供側には大人に刃向える力がないのだから、大人が子供の感性を無視すれば、そこはもう民主主義と謳っていたとしても独裁社会だと思う。

即興家デレク・ベイリーさんの本に面白い事が書いてあった。「子供は基本的に全てに反抗的なので、それが子供の精神をまもっている。大人はもっともらしいセオリーは全て信じてしまう。だから大人の方がもっと危ないのだ」と。

子供は決してセオリーから物事を学ばない。

すると我々はなぜ、逆のやり方で子供を征服しようとするのか?

この文章はどれだけ子供が我々の失った力を持っているのか、如実に表していると思う。

音楽的にはこれまでの人生でやりたかった事を全力で集約してきた一年だった。

でも、それだけでは足りない。

私はいつか、この馬鹿げたシステムを自分の力で抜けださなければならない。

今度こそピュアに自分の力で、だ。

私は卵側にたつ。

いつも勝てるとは限らなくても。

私たちが思わなければならないのは、産まれてきた命を守りたい、と言う感覚だけだ。

今こそ自分の力が試される。

自分の力が高まってきたからこそ感じる閉塞感なのだと信じて、

無力感の中に、本当にやらなければならないことを、今見出している。


 
 
 

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