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Keith Jarrett "Inner Views"キース・ジャレット「インナー・ヴューズ」

  • 執筆者の写真: Mie Ogura-Ourkouzounov
    Mie Ogura-Ourkouzounov
  • 2018年1月22日
  • 読了時間: 7分

このところ話題が本続きなので、やはり一番これまでに影響を受けた本のことを記しておかなければ、と思い、またキース・ジャレットの「インナー・ヴューズ」を手に取りました。 読む度に一行一行が臓腑に染み入り、こんなに共感できる、崖っぷちに立たされたように意識が覚醒され、感覚が研ぎすまされる、こんな本はない。 マイルスの自伝とならんで、私の人生の灯台として導いてくれる本。 キース・ジャレットはクラシックとジャズからそのキャリアを始めているが、その即興演奏はすべての枠を超える。 言うまでもなく、今世紀最大の即興家。 でも、本当の彼の内面はあまり広くは知られてないのでは?という気がします。 でも、知られてなくて幸いなのかもしれない。だって、こんなにも確信をもって、彼の感覚を通した真実が書かれた本がベストセラーにでもなったら、世界の音楽界は大混乱してしまう!!だって、ほとんど今日聴ける「音楽」は、たいてい偽物だ、ということが暴かれてしまうのだから(彼の言葉を借りるなら、それは「生産物」になってしまった。) そして、現在まかり通っている西洋随一主義の音楽教育、完璧な品を生産させるコンクール体質、そして権威者やメディアが完璧な品と名打ったスターをでっちあげ、金儲けするシステムも完全にぶち壊されてしまうだろう。 本当に偉大な人物というのは、何も恐れない。 こう言ったら誰かにどう言われるか?ということは一切考えない。 彼の言葉を借りれば、「芸術家は他人が持っている内側外側という視点に責任を持つ必要はまったくない。自分自身の視点にだけ従えばいいんだ。」今日みんながインターネットに溢れる意見に一喜一憂し、最悪リンチになっているのとはまったく逆だ。 話は逸れるけど、いま即興のアトリエで、それぞれの生徒が自分が普段聴いている音楽を持ち寄り、それをみんなで聴いて話し合う、ということをしている。どうしてそういうことをしようと思ったかというと、「さあ、みんな自分のカラから出て一緒に音楽をしましょう。楽譜を演奏する時と違って、自分の責任で音楽を創り演奏してください」と言ったって、結局みんな「自分自身」と「音楽」との関連が何なのか、そこのところもモヤがかかったようにぼんやりしているようで、(キース・ジャレットは「自分はサウンドの中にいる」と確信的に言っている。サウンドの中に自分がいれば、確かにそんなの考える必要もないよね)楽器はある程度操れても、「好き嫌い」という単純な意見でさえよく分からない、クラシックの先生について小さい時からずっと言われるがままにやって来ただけで、どうやら誰も「彼自身」には興味を持たなかった、そして彼ら自体が自分自身に興味を持つ事を放棄しているようなのだ。もちろんそんな状況の中で「さあ、今自分の感じたことをやりなさい」と言っても「はあ?」という感じで堂々巡りになる。それでは、まずはあなた達一人一人のことが知りたい、即興をやるには「あなた自身が」必要なのだ、と始めたことなのだけれど、そんなこと、どんな授業でもやったことがないから、最初生徒達は面食らっているようだったが、だんだんと自分のカラを破り、一週目、2週目と、次々にみんながCDや携帯を持ちよってくる。 すると面白いことがあった。3人の生徒が持って来た音楽が4つの言語(スペイン語、オランダ語、イタリア語、英語)のラップやポップのような音楽だったのだけれど、繰り返すベースラインと数個の和音、メロディラインはほとんど全曲同じで、エレクトロの合成音、演奏されたものはひとつもなく、コンピュータで合成された音でオリジナリティがあるものだってもちろんあるが、この場合は全編通してコピーアンドペイストだったということだ。 まさに「生産物」としての音楽。歌っている言語がそれぞれ違うのに、音楽は地域性を全く失ってしまっている!そして彼らは、そういうのを日々聴きながら、音楽院に来るとクラシックの楽譜を何の疑問もなく演奏しているわけである。あまりに乖離している。自分でフタを開けた事ではあるが、この真実はかなり重い。。。 もちろん私は批判するためにこれをやっているわけじゃない。そこに溢れているものを普通に聴いていても当然かもしれない。巷にあふれるファストフードを誰もが食べるように。でも、音楽を演奏したいのなら、自分が何を聴いているのか、まずは意識的に知って欲しい。それで、なにに気づくのか、感じることや、考えることは?それは本当に自分で選んでいる?そこからしか、物事は出発しない。何を聴きたいのか、どんな音が出したいのか、なにが演奏したいのか?? しかしですよ、この「インナー・ヴューズ」を読んだら、あまりの衝撃に、今この瞬間から適当に音を出す、無感覚な演奏する、感覚を閉ざして生産物たる音楽を聴く、ということができなくなるはず!私はまだあきらめてはいない。 自分の心地良さを守るためや、きれいな音を出したいため、または指を動かして機械的に弾くなどという一次元目、その快適なカラの中にいる演奏の段階では、自分は自分の出す音を聴いてさえもいない。 「自分の好きなものを弾きたい」などといった「次のおかずはあれを食べよう」的な一次元の自分のエゴの領域ではなく、「その空間に弾かなければならないもの、演奏されるべき何か」が聴こえてくるとき、それが芸術の第一歩なのだという。 次。その弾かなければならない音を欲することを、彼は「獰猛な欲望」と呼ぶ。 ただ、普通に欲しただけでは、その音は手に入らない。その音を手に入れるためには、獰猛なまでの欲望が必要だ。 エゴとは無関係の、野性のお母さんライオンが小さい赤ちゃんライオンを守るための命をかけた「獰猛さ」がないとだめなのだと言う。 ソロの即興コンサートでは、彼は自分の好きな弾きたい事を弾いているのではことは、もうお分かりいただけたと思う。自分をさらけ出し、リスクを背負う為だけに弾いているのだ。 そこでキースは「生き残るための戦い」をしているのだ。 彼には、スポンタニウスになる以外に生き延びる方法はない。 それがウソでも大げさでもなんでもないことを、私は忘れもしない2006年に、パリでのキースの有名な全ソロ即興コンサートを聴きに行ったときに知った。 この話は生徒や友人には何度もしているので、耳タコと思われているかもしれない。でも、本当にあのコンサートは、なんというか、私に強烈に音楽の真理を突きつけた。そのことは昔エッセーに書いたので、こちらで詳細を読んでほしい。 この本は一文一文がとても繊細で美しく、大事なので、私にはとても抜粋して紹介することは出来そうにない!もう全文が名文だ。あとがきによると、キース自身がインタビューを何年もかかって削ったり、付け足したりと執念の校正をしてきたというのだから、全力で彼が伝えたい本なのだということが分かる。 この人は音楽を、彼の言葉を借りるなら「なすがままにさせる」「起こるがままにさせる」ことができる、希有な天才即興家であるが、(大半の音楽家はコントロールしようと思ってしまう、または何かを「起こさなければ」と思ってしまうだろう)書く、(作曲も)という行為に対してはものすごくやり直す人のようだ。「紙に、書いては消す、消しては書く。。。しかしそれしか出来ない」彼曰く、コンピューターには絶対できない作曲法。キースは人間であることを隠さない。 ああ、歯がゆいなあ。。。抜粋し始めるとキリがない程素敵な本だから。。。もうやめときます。だから、是非にも!!これ、読んでください!!!そして準備された生産物ではない本来の音楽がもっと地球に戻ってくるよう、「今日も生き延びられたことを感謝するために」(by キース)音楽ができるよう、ひとりひとりがリスクを負って!自分のカラなんか捨てて!怖さも捨てて!!音楽をやりましょう。 キースのソロコンサートを聴いて、彼に感想を言いに来た人が「あなたの演奏はよかったのだが、椅子の座り心地が悪かった」と。キースの答え「では、あなたは楽していて何かを学んだ事がありますか?」もう、最高ですー!(笑)あ、また抜粋してしまった。 次回は彼一人でいろんな楽器を即興で多重録音したアルバム、「スピリット」の紹介をしたいと思います。


 
 
 

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