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創造性の玉手箱  2016 6.4

  • 執筆者の写真: Mie Ogura-Ourkouzounov
    Mie Ogura-Ourkouzounov
  • 2016年6月4日
  • 読了時間: 3分

こないだのアタ(夫)との会話。 「音楽院の会議で私の即興アトリエの『即興』という言葉がこわくて生徒を送れない、という先生がいるんで、名前を変えたほうがいいんじゃないか、って話がでたんだけど。」 「怖いも怖くないも、即興は即興だろ」「でも生徒が集まらないと困るし。どうも楽譜を打ち捨てておりゃ~!!という反オーケストラみたいなイメージがあるらしいんだよね、そんなんじゃ全然ないのに」 「じゃソフトに、アトリエ『国境のない音楽』とかにしろよ(笑)」「やめて~、歯が浮く!!気持ち悪いまじめに考えてよ!」「アトリエ『記述か口伝か?』 疑問符つけて争点っぽくしたらイダルゴ(現パリ市長)の気に入るぞ」「別にイダルゴのお気に召さなくていいからそういえば左派ってそういう偽善系インテリ ワードが好きやな。。。逆に右派は単細胞で勇ましいのが好きだよね、立ち上がれフランス、みたいな笑、じゃ、アトリエ『力強い前進』(笑)」 「じゃあメランション(極左)が政権とったら?」「そりゃアトリエ『革命』で決まりやな」 脱線いたしました。。。でも政治を笑うの、大~好きだっ て最近、あの方たち名前を表面的に変えたら世界が変わると思ってらっしゃるみたいなんだもん。主題に戻ると、多分「創造のアトリエ」あたりがいいような気 がしている。création、というとクラシックの世界では新曲の初演のみを意味するけど、本来この言葉は自分自身で創り出すものすべてを意味するは ず。即興であれ作曲するのであれアレンジするのであれ。。。 ひとつのフレーズにしたって、自分で創りなさい、というと私の生徒たちは必ず目を輝かせる。そういうのに慣れてなくて、え?!出来ないよ~!と言ったとし ても必死で考え、感じようとする。そうしないと、創れないもの。与えられた楽譜ばっかり受け身でず~とやらせてても、そういう反応は出て来ないし、音楽を やっていれば絶対必ずどこかでみんな「自分で創る」ことの必要性を感じているはずだ、と私は思っている。作曲は作曲家がするもので、演奏家は演奏をするた め日々楽譜を解読し技術を磨け、というベルトコンベア的分業志向はなんかおかしいよ。 うちの母は教育者なのだが、「その子の箱がいっぱいになるまでは有無を言わさず知識を詰め込め。そうすれば創造性はいつか勝手に溢れ出してくる」と言って いた。私もまったくそう思う。うちの子を見ててもそうだった。3カ国の言葉を彼女はずっと産まれたときからそれが当たり前と思って聞いてきて、ある時を境 にとつぜん溢れるようにしゃべりはじめた。その箱がいついっぱいになるのか、それは非常に個人差があるみたいで、本当に一概にはいえない。アタなんかギ ターを遅ればせながら16歳で始めて、始めたと同時に作曲し始めたというのだから、不思議なことに彼の創造性の箱はその時点で満杯になっていたらしい。私 の場合は3歳という異常に早い段階で音楽をはじめて、始めての先生のところでは自分の意思ではないが最初から作曲をやらされたので、そういうのは当たり前 だとおもっていた。(最初から当たり前、と思わせる教育の、いかに大切なことよ!ありがとう内藤先生) 高校ぐらいの時に箱が一杯になったらしく即興したくてたまらまらなくなったのだけど、曲を書く、という意味ではなぜか苦痛で、もっともっと後でちょっとだ け書くようになった。私は思うんだけども、ひとりひとりは創造性の玉手箱なのだ。いつ玉手箱が開くのかと思うと教えるのはかなり楽しい。


 
 
 

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